抽象から言葉へ 映画批評
『神様のパズル』
これだから理系は、、、という見出しのネット記事があった。日本人はやたらと「理系」と「文系」にカテゴリーを分けたがる。私は学者ではないけれど、学問をカテゴリー分けして、その一つの専門しかできないのは別にすごいことじゃないだろう、と思う。本当に学問を究めた人は学問に境をつくらなかった。たとえば、、、いや、この話をすると長くなるのでまた後で。
この映画を少なくとも「理系」とされている学問を極めた人が観れば、なんと面白いコメディ映画ということになる。
ストーリーは簡潔に。天才少女が宇宙を作ろうという話だ。天才少女サラカは、不登校児だったが、ひょんなことからゼミにでることになった学生、綿貫に説得され大学に来ることになる。サラカは孤独であり、部屋にこもっている。人間の欲を否定し、理性、論理のみで生きるもの。
綿貫はサラカにふとした疑問を投げかけた。「人間に宇宙って作れんのか?」
「おもしろい。それはやりがいがある。」天才はその不毛とさえ思われる疑問に熱意をもつ。二人は人間に宇宙が作れるかをゼミで証明する羽目になってしまう。アインシュタインが出来なかったんだから、僕らにそんなことできるかね、と思っていたがどうやらできてしまいそうだ。さて、ここに問題が生じる。もし宇宙が宇宙の中で作られれば、今ある宇宙は消滅してしまうかもしれない、、、。サラカは解いてはならない問題を、正解へと導いていく。
といった、ハードSF学園コメディ映画だ。あともう一つ。さすがは角川春樹製作。この映画は谷村美月(サラカ)のアイドル映画にもなっている。角川映画にて薬師丸ひろ子(セーラー服と機関銃)、原田知世(時をかける少女)、渡辺典子(キャバレー)を輩出した角川春樹の眼はいまだ衰えぬようだ。
この監督の名を言うとたまに毛嫌いするひとがいるけど、監督は三池崇史である。作品の質にUP,DOWNのある人だけど、この映画は大傑作だ。この人の撮った映画、「テラフォーマーズ」「着信アリ」「悪の教典」「藁の楯」、傑作もあるし、そうでないのもあるので、ノーコメント(笑)。土曜の朝に放送している「魔法戦士マジョマジョピュアーズ」もそうだ。
概要はこの辺で終了。ここから先は映画のネタバレ(結末までは言わないけどギリギリのとこまで)もあるのでご注意。ここからは映画とは関係なさげに見えることも書くので、読まなくても映画は十分に楽しめる。けど、知ればもう少しこの映画を深く理解できる。この映画はとても多面的で、ラブストーリーもあればコメディもありまた哲学的な要素も含んでいる。出来れば、映画を観終わってから読む方が望ましい。
この映画の最も哲学的なことを思わせるのは映画終盤。サラカは、全国のすべての発電所をハッキングして、宇宙を作り上げるエネルギーを「無限」という巨大な装置へと集める。サラカの知的興奮はもう綿貫にも止められない。あとクリック一つで宇宙ができるとともに宇宙が消滅する。危ない!と、そこへ傷だらけの綿貫が飛んでくる。彼はギターを抱えて、ベートーヴェン「喜びの歌」(ロック風)を突然歌いだす。するとサラカは茫然自失と、マウスから手を放す。これは一体なんなのか。
1、主知主義から主意主義へ
サラカは、試験管ベイビーである。人工的に受精卵を作られた。母が天才児を望んだことによって。そして、そのとうり天才がうまれた。
彼女の人生の全てが、論理、理性で構築されたものであり、サラカ自身がその合理的な論理のみを崇拝する。そして、人間の不合理な欲を徹底して否定する。つまり彼女は主知主義者(理性の働き、ロジックを信頼する立場)である。主知主義者の代表としてはアリストテレスがあげられるだろう。それに反駁してロックを歌った綿貫君はいわば主意主義者(人間の理性に限界をみいだし、感情や意志を重視する立場)である。この主意主義には、サラカの崇拝する合理性はない。また論理も成り立たないことが多い。
しかし、主意には、人間しかもっていない情動や情念を重んじる。綿貫君は、懇親のロックで「喜びの歌」を歌った。それが彼女にミメーシス(プラトンの思想。凄いとおもって模倣してしまうような感覚)を与えてしまう。まさに彼はサラカをロック(揺さぶる)したのだ。この次の話もあって(言えない、ネタバレ)サラカは、人間の不合理だけども揺さぶられてしまう、主意主義に転向してしまうのだ。
2、論理への情念は不条理から
生ずるもの
理論への情動は不条理から生ずるものである。私が言い切るのではなく、過去の偉人たちがそうであったから。
論理学の基礎と言えば数学。しかし、数学はどこからうまれたか。
近代数学はギリシャに始まった。ギリシャの論理学は、アリストテレスの形式論理学に結実した。でも、それを完璧にしたのは古代イスラエル人(と社会学者 小室直樹はいう。)。古代イスラエルの宗教はのちのユダヤ教。それは「神は存在するのか、しないのか」という問いから出発し、論理学が育成された。神という全く不確かで、理性を超えた存在がいるだろうか、と昔の人は考えた。その情念を支えたものは、宗教が大きかったとおもう。でも、神に理屈もなにもないでしょ。いると思うか、いないと思うか。それが信仰というもの。とっても不合理だ。でも、そこから論理がうまれた。
私の敬愛する社会経済学者に、小室直樹という人がいる。この人の凄さはまた今度詳しく書こうと思う。この小室直樹というひとは、社会学も経済学も数学も論理も、宗教学も法学も、心理学も、ありとあらゆる学問を習得した神様みたいな存在だ。小室博士は、まず京都大学理学部数学科に入る。そこに入った理由はこんなもの。次の戦争ではアメリカに勝つため、もっと強力な兵器を作ってやる。小室博士は戦前生まれで、小さい頃から愛国者だった。それで、学問をしまくった。小室博士の学問への情念は、敗戦という出来事で湧き上がってきた。これは理屈とか理性とかじゃない。でもそれに突き動かされて、徹底して合理を突き詰めた。社会を考えて、日本を考えた。
知の巨人と言われてる人の多くはみんなそうだったかもしれない。アインシュタインも、ノーム・チョムスキーも、福沢諭吉も、論理への情念は不条理から生じたのだと私は思う。
この映画のラストのサラカの笑顔はじつに晴れやかで美しい。
一見するとB級映画なんだけど、色々入った福袋みたいな映画で、お得感がある。さすが三池監督、角川春樹プロデューサー!
春休みに見る映画にはぴったりなので、ぜひ。
参考文献
1、宮台真司「私たちはどこからきて、どこへ行くのか」主意主義の説明。
2、小室直樹「数学が嫌いな人のための数学」古代ギリシア近代数学
↓小室直樹 社会学者
経済学者 著書多数
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