友情 ある半チョッパリとの四十五年 西部邁
前半部分は私の思い出と紹介する本を結びつけた、単なるエッセイなので、本のことだけ知りたい人は、前半部分を読まないで結構であります。
一月ほど前に、私の母から旧友のY君の母と偶然に会って彼のことについて話したと聞いた。旧友Yは小学校の三年から六年まで哀歓を共にした友である。彼との出会い、というかいわゆる親友になったのは三年の時分である。その訳というのが、じつにくだらなく言うに値するものではないがこれがなければ私は彼と友情を持たなかったであろう。
当時、小学校では水曜日の昼休みは遊ぶ時間がいつもより一五分ほど長く、水曜日には外で遊ぶことを強制させられていた。クラスメイトの多数は、外で楽しくドッジボールをしていたが、私と友人Yはどちらかと言えばインドアであり、教室で静かに読書をしたかった。しかしそんな風に決まりを破れば「外でみんなと遊びなさい」と担任に𠮟られるものだから仕方なく外で遊んだ。「遊び」の強制となると、もはや遊びではないと思いながら。その日の遊びは多数決で決まる。
大抵の選択肢は「ドッジボール」又は「けいどろ」だった。どちらも好きではなかったが、けいどろの方がましだと考えた。その動機も不純なもので、鬼に捕まれば檻のなかでゆっくり本を読めるし、のんびりできて良いと思ったのだ。私がけいどろに手を挙げると、数名の女子と男子二名が手を挙げた。もちろんそれは少数であり、多数派はドッジボールである。そして少数派の男子二名のうちのひとりが私で、もう一人がYであった。そこで私は彼と意気投合した。またそこで私は「マイノリティこそ正しいのだ。マジョリティは馬鹿である」といった単なる自己を肯定するための勝手なエゴイズムを振りかざしていた。誠に恥ずかしい。しかしここで、マジョリティに対する懐疑が私なりに芽生えた。今思えば、ある側面は正しかったとおもうのである。
友人Yは私とは対局に、勉学に励んでいた。週に六日間,塾に通っていた。それから六年になると、三学期はほとんど来なかった。私は彼が進学のために学校を休んでいると察していた。
私は彼に幾度と助けられた事がある。四年の時、私はクラスのコミュニティの外にいた。いわゆる「いじめ」に遭っていたとは記憶していない。しかし私には孤独を思わせる雰囲気が漂っていた。その一つとして記憶しているある日のことがある。給食を食べる席がその日は自由だった。自由といっても、大抵いつも同じである。私はある男子の席の集団に自分の席を付けた。すると「お前とは食べたくない」と言うのだ。所詮小学生だから、思ったことをオブラートに包めない。別になんだ、と思っているとその集団の席にいたYが席を移して私と二人で食べてくれた。それ以来、自由席の日は彼と共に食べていた。孤独な私に同情してくれたのだろう。ここに私はヒストリカルイフ(歴史上のもしも)を考える。もし彼と友人になっていなかったら、私の孤立感は進行し、いじめに発展していったかも分からない。勉学はそれなりであったが、何せ一クラスしかなかったので、その当時の自分にとってコミュニティからの排除は絶望を意味したのだ。
それからも彼との仲は六年まで続いた。中学は違ったが、当初からそれはなんとなく感づいていたのでさほど別れも哀しみも覚えなかった。周辺地域に住んでいるのでまたいつか会えるだろうと思っていたが、卒業式以降に逢っていない。
この、短くつたない友情を思い起こしたのは、『友情 ある半チョッパリとの四十五年』を読んでのことである。
著者の西部邁(にしべすすむ)は日本でも稀有の思想家である。そしてその思想は保守思想だ。保守と聞けば、多くの人が思い浮かべるのは、顔面古老で、融通のきかない分からず屋。何かを変えようとすれば、変えないという反動主義、といった保守に対するネガティブイメージがある。日本では自民党が、アメリカでは共和党が政党として保守をかがげているが、少なくとも西部のいう保守はイデオロギーではなく、心の構えである。西部の保守思想についてはまた今度詳しく書こうと思う。
この本は、西部が「半チョッパリ」なる友人、海野治夫との運命を書き留めた“あの時代”に対するエッセイ(評論)である。ちなみにエッセイの語源は「エグザミン(試す)」にほかならない。思想家、西部と八九三、海野治夫との四五年を硬派な文体で書く。二人が刃向かい生きたあの混濁した「時代」と共に。
「チョッパリ」なる言葉を聞き、理解するのは年配者であろう。チョッパリとは、朝鮮人を罵るための差別用語である。海野は半チョッパリ、つまり朝鮮との混血である。
西部のものに、きたるべき事態が起こったように、友人海野の自死が知らされる。焼身死体か、河口に身を投げたのかも判別がつかぬような凄惨な遺体であった。
海野治夫と西部邁は中学にてで会う。北海道の土地で、飢えに加えて寒さが加わり、裕福ではなかった西部からみても海野治夫は特別貧相であった。彼等はそこで精神的同性愛が漂うほどの親友になった。「あの時代の札幌」を背景に、二人の運命はあまりに残酷な形で分断される。海野は不良と任侠、あるいは極道の世界へと。西部はゲバルトと革命、そして知識人のみちへ。海野の不良、極道は本物であった。彼ほどの孤独をもった、あまりに悲惨な道を歩むほかない人生は、私を含め現代日本人には想像の余地がない。表面で孤独という言葉を使ったが、クラスからの孤立など海野からして孤独ではない。故郷から、友人から、家族から見放された海野は、その欠落を補うがためにヒロポン(薬物)の依存へとひた走る。またそれは、必然としかいうことのできぬ事情によって。
西部は家族の役割についてこう書き留める。
「家」とは、人間の孤独をいやしてくれる場所であり、人間の空腹を満たしてくれる場所なのであろうと。海野はこの二つに巡り合わなかったのだ。
この本は、海野治夫を西部の客観的視座によって書かれた、西部邁の『評伝 海野治夫』ではあるが、第十六章『この記憶さえ無かったらなあ』では、海野治夫の一人称視点で描かれる。海野が西部宛に書いた、手記の文体をもとに、西部は彼の生涯を成り代わって独白する。しかしその言葉は、残された海野の妻と、一人娘にあてられた最後のメッセージともとれる。
西部邁の「保守」
西部の説く「保守主義(Conservatism)」というものが現代の政治界のみならず民衆の場において大きく紊乱(乱されて)されてしまった。先日の選挙ではメディアはやたら「保守分裂」などと言っていた。しかしまず考えなければならないことは、はたして現政党は保守なのか、ということである。もう一度、西部邁の本を熟読し、保守とは何たるか、保守とはいかなる心の構えか、ということを検討しなければならない。
この本では、左翼から保守へと転向した西部邁の人生が、思い出とともに描かれる。保守と思い出は、相反する価値観のようにも思われるが、西部の保守を作り上げたのは明らかに人生であると思われる。この本は、ある八九三の評伝ではあるが、この二人の友人と人生の中にこそ、保守のエッセンスが含まれているのである。
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