岩井俊二 『スワロウテイル』と街の誘惑
「スワロウテイル」「リリイシュシュのすべて」「リップバンウィンクルの花嫁」 平成を描いた岩井俊二。岩井作品を観てひとは、街へ世界へと誘惑される。 システムが壊れても、岩井俊二は繭を破る。
平成が終わりました
4月30日に平成という時代が幕を閉じた。平成という時代の中を、私はたったの14年と6カ月しか生きてこなかった。しかし、子供は子供なりに時代のニューマ(空気)を皮膚感覚で感じ取っている。 平成の空気をいち早くキャッチしたのは、映画監督・岩井俊二だろう。 岩井監督は時代を描き続けた。 平成はどんなことがあったか、どんな社会だったか。どんな人間が輝いたのか、自分の中で記憶と記録を辿ってみる。 1989年に幕を開けた平成。同年にベルリンの壁が崩壊した。平成2年(1990)よりバブル崩壊。平成7年(1995)阪神淡路大震災。また、地下鉄サリン事件。このころから、日本を世紀末の空気が覆った。いわゆる終末論が大流行した。またインターネット元年ともなる。ガングロ、コギャルも流行する。 あとはキーワードだけあげることにする。ケータイ、いじめ、デフレ、リーマンショック。平成23年(2011)には東日本大震災がおきた。 あえて大雑把に並べた。この平成という時代を、我々はどうみるか。悪いニュースばかりではない。むろんこれは私の中の平成イメージを抜き出したものに過ぎない。しかし岩井俊二作品は、時代をみるひとつの物差しとなるのだ。令和に飛びつく前に、平成を我々で見てきたことを忘れてはならない。
「スワロウテイル」1996
https://youtu.be/m09wVIFH3lA
時代と呼ぼうが平成と呼ぼうが、この30年を岩井俊二は突き抜けた。今回は「スワロウテイル」を主題とし、岩井作品の魅力と力を書き綴る。 今や映画より主題歌の方が有名になってしまった。Charaが歌う「スワロウテイルバタフライ~愛のうた」は誰しも聞いたことがある。 主演は三上博史、Chara、伊藤歩。 ストーリー。世界で一番円の強かった時代。ある街をあるものは円街(イェンタウン)と呼ぶ。一攫千金を求めこの街にやって来る外国人(違法労働者)を日本人は円盗と蔑称する。 母をなくした少女アゲハは、母の友人グリコの所へ潜り込む。胸に蝶のタトゥーを入れた美しい女グリコは、円を夢見て日本にやってきた円盗であった。彼女の周りにいた仲間たちもまた円を求める円盗たちである。アゲハが彼らと共に過ごして数日経ったある日、アゲハをレイプしようとしたヤクザを誤って死なせてしまう。彼の体内には一万円札の磁気データが記録されたカセットテープが入っていた。彼等は偽札を作る。フランクシナトラ「My Way」の音楽とともに、円を手にしたグリコ達は、歌手の夢を叶えるが。 この街は多言語空間である。日本語と中国語が混ざったような猥雑な言語文化は、「ブレードランナー」のシティースピークにも似ている。岩井作品の一つの魅力は「街」である。「スワロウ~」の街(円街)がなにを思わせるかと言えば、まず人は香港の屋台を思い浮かべる。そうかと思えば「マッドマックス」の荒廃した砂地。シドミードか香港か、ここは日本なのか。いや、街の造形ではなく、街が与える感覚が、この円街の混沌とした力なのだ。これは岩井俊二作品すべてに共通する。街へ世界へと誘惑され、社会に飛び込む。そしてカオスを引き受ける。〈街の混沌〉への〈ダイブ〉は、かつての寺山修司であった。この世界は、岩井俊二の最高の魅力なので、最後に論ずる。
アゲハ「胡蝶の夢」の回想
映画中盤にアゲハは、グリコと同じスワロウテイル(アゲハ蝶)のタトゥーを胸に入れる。タトゥーをいれる最中に彼女はこのような過去を回想する。アゲハはまだ子供だ。ドアが閉ざされる。母はそとで仕事(淫乱な)をしている。蝶がいる。手に届かない、窓から出てしまいそうになる。取ったとおもったらパチンと手で潰してしまう。すると蝶にフォーカスする。現実のアゲハは彫師に言う。「これは夢なの?」。 ここは紛れもなく中国の古典「胡蝶の夢」からの引用である。夢の中で胡蝶としてひらひらと飛んでいた所、目が覚めたが、はたして自分は蝶になった夢をみていたのか、それとも今の自分は蝶が見ている夢なのか、という説話である。これを書いた荘子は、なにを伝えたのか。まず、現実と夢の区別がつかないからどうでも良いというニヒリズム(虚無)ではない。夢か現かという区別は不毛であり、どちらであってもその場に満足し肯定する。ニーチェの永劫回帰ともにた思想である。 アゲハとグリコは、それを覚悟して、混沌とめまいを請け負った存在なのだ。つまりまとめると、〈現実の豊かさ〉よりも、〈混沌の中の愛や人生〉を引き受ける象徴としてスワロウテイル(アゲハ蝶)のタトゥーが存在している。ここに、岩井俊二の〈自由〉が表現されているのだ。
「リリイシュシュのすべて」2001
https://youtu.be/y_NXoSi-Pkc
「スワロ~」での世界は猥雑であっても広がっていたが、その5年後に公開した映画「リリイシュシュのすべて」は全く対の世界となる。中学生雄一は閉ざされた社会に生きている。いじめ、恐喝、万引き、援助交際、その他にも当時の社会の闇の部分が次々とうつされていく。 雄一にはこの閉ざされた社会〈地域そして学校〉から、他の社会とコミュニケーションをとる場所として歌手・リリイシュシュのファンサイトの存在を知る。 この映画では、あまりのリアルな学校の描写(ヒエラルキーや友達との関係性)に途中で観ることを放棄したくなるだろう。後半になるにつれて、闇は深まっていく。 この「リリイ~」では、閉ざされた社会を飛び出す手段として〈インターネット〉が用いられる。が、世界へ出る手段を雄一は得たにもかかわらず、自由にはならない。この点が「スワロウ~」とは違う。 雄一はリリィのコンサートに行く。しかしここでは、コミュニケーションをとることができない。インターネットから〈対人〉の場になったにもかかわらず、世界が開けない。自由も得ることができない。この現状がさらにエスカレートし、映画は終わってしまう。
「リップヴァンウィンクルの花嫁」 20016
https://youtu.be/uhF5bqHTkA4
そして「リップヴァン~」へ。もし岩井俊二の映画を始めてみるのならこの映画をすすめる。大傑作だ。起・ネットで知り合った彼氏と皆川ななみは結婚する。承・ある理由で追い出される。転・街へでる。カオスを引き受ける。結・流れに巻き込まれる、と同時に自由を得る。 やはりこの映画で最も自由を感じさるシーンがある。その日あったばかりの女と、夜の街を歩く。はたして岩井作品のもつ〈街、世界への誘惑〉とは何なのだろうか。
「書を捨てよう、町へでよう」
1960年代から70年代にかけて寺山修司という大天才の芸術家がいた。詩人、映画監督、作家、肩書は書ききれない。岩井作品は、非常に寺山的である。寺山の「書を捨て~」では、〈部屋にある書物〉から〈街に出て人という教科書へ〉。〈フィクション〉と〈現実〉の区別でなく二つの境をなくしてみせた。そして街へでて混沌を引き受けるとそこに自由がある。岩井俊二自身が「寺山からも影響を受けた」とトークショーにて語っている。
街は誘惑する
岩井作品をみればあなたもきっと、街へ世界へ誘惑される。
たとえ社会が曇っても、人は濁った河できっと輝く。
岩井俊二は掟の繭を破って、
未規定な猥雑な世界へと観客を誘う。
拡張現実〈VR〉は一時的な享楽を与えても、
世界へ飛び出す自由の感覚は与えない。
さあ、その手のスマホを一度おいて、町へでよう。そう、岩井監督と寺山監督は私に衝動を与えた。
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