アピチャポン・ウィーラセタクンの世界

~僕らの生きる世界の匂い~

【記憶のスクリーン】

草むらで虫を捕まえるのと、森を駆けずり回って虫を追いかけるのとでは体験が全くちがう。小学校一年から三年まで、私は一つ年上の友達と毎日森で遊んだ。森の至る所に秘密基地を作った。森には入口がない。どこからでも入れる。当時の私は今と違って、かなりヤンチャだった(いまでもその面は多分にあると思う)。森には獣道があって、通行人はその道を通る。毎日遊んでいたから、どの道が何処へ行きつくのか全て分かっていた。私はいつも、道のない場所に分け入っていくことが好きだった。だから、迷子になる。でもしばらく歩くと見慣れた道に出て、「ここにつくのか!」と驚いて、楽しかった。森は神秘的な力を持っていて、子どもを誘ってくれた。 私はアピチャポン・ウィーラセタクンの映画が好きだ。彼のフィルムは観客に森を体感させてくれる。そして世界に誘(いざな)ってくれる。記憶に、フィルムを照らし出してくれる。 まだ自分が小さかった時のこと、森で遊んだこと、初めて見た夜の街のネオンが眼に入ってぼんやりする感覚。ウィーラセタクンは観客の記憶にスクリーンを映しだす。 この監督の作品を一言でいうのなら「豊かである」としか説明できない。なぜならば、〈世界〉を体感させるからだ。脱社会的な人物を描いた作品は数多ある。 しかしウィーラセタクンは少し違う。彼の映画を観ること自体が「世界と〈街と〉交わることは、こんなにもいい感じなんだ」と感じさせてくれえる。学校、会社、といったものはシステムの構造物に過ぎない社会の産物だ。コチコチと動く社会のメトロノームに体を順応させる我々。そんな我々に、ウィーラセタクンは世界の匂いを教えてくれる。 

『トロピカルマラディ』2004

この映画は構造がじつに不思議だ。前半部は二人の同性愛の青年たちが、タイ イーサンの街を漂う。冒頭のシーンは森林で何者かの死体が発見される。森林警備隊のケンと、職にも付かずぶらぶらと生活するトンの恋愛模様は、じつに美しく、そして予測不可能な現在を断片的にみせる。だから、それぞれのシーンにはなんの関連性もない。 すると突然、映画は暗転し、第二部が始まる。前半部の物語とは何の関係もないように思える。前半部でケンを演じた俳優が、森林警備隊として登場する。村では人や家畜が失踪している。ケンは森へ入り、全裸で森を走る青年に出会う。ケンは彼を追跡する。暗闇。木の隙間からの僅かな月明りで映画は進行する。青年は虎に“変容”する。青年は虎の精霊が人間に姿を変えたシャーマンだった。そしてケンはその虎に“食われる”。そして観客は前半部分の冒頭を思い出す。つまりこの映画の時間軸は、第一回目の鑑賞では未来から過去へ話が進み、続けてもう一度見ると、過去で一つの世界を体感し、そして未来へと戻ってくる。この文脈自体が巧みすぎるではないか。「後半で過去を体感し、前半で未来を再体験する」という見事な構成。こんな映画は観たことがない。 

・街に漂う恋物語 モーラム的な憑依

 この映画を作る際、ウィーラセタクンは精神的に不安定だった。恋に破れ、父の死に直面していた。幸福な恋人たちのシーンを撮るのはまるで拷問のようだったと語っている。しかし、だからこそ美しい、トンとケンの恋愛模様と、それを包み込むイーサンの街。人は自らに欠落している場所があればこそ、それを埋めようと芸術に昇華させる。そして、街の魅力。ぼんやりと、屋台の照明が眼に入り込む。そのフワフワとした感覚は、まさにトンとケンの関係性のようだ。

 タイ北部の街イーサンにはモーラムという伝統音楽がある。モーラムの「モー」はスペシャリスト、「ラム」は歌を意味する。元々はピー信仰というタイのアニミズムで、シャーマン的な歌とされてきた。その中にラム・ピーファーという最も古いモーラムがある。ピーファーとは、女性の病人に“憑依”し、治療をすると信じられている霊だ。「トロピカル~」では、まさに憑依による治療が描かれている。文化人類学では、シャマーニズムは「トランスのような心理状態で超自然的存在と交渉し、占い、予言、祭儀、そして病気治療を行う呪術・宗教的職能者=シャーマンを中心とする宗教形態」(祖父江孝男・著 文化人類学入門p163を参照)である。実際、映画の中盤で歌謡曲を歌う女性歌手が登場する。私はタイ語が分からないのでなにを歌っているのか理解できないが、モーラムだと想像する。つまり後半でケンは虎に食われることにより憑依される。が、憑依されることを引き受けたのだ。そして前半では、憑依後の主人公たちが社会に戻り、豊かな、人間的な営み(恋、愛etc)を行う。

あの女性歌手、そしてTropical Malady“熱帯の風土病”このタイトルがモチーフを象徴している。風土病は、ある特定の地域で流行する病だ。このイーサンでは、皆が同じ感情的な病をもっている。つまりそれは痛々しくも美しい恋の病であり、同じ街を体感する病だ。どれもこれも、人間的な営みである。後半を観てから再び前半をみれば、観客は新たな視座を得て物語を反芻させるのだ。

 『世紀の光』2006  

草原と森に囲まれた地方の病院。女医のターイの日常が描かれる。軍出身ノーンの面接、彼は今日から病院で働き始める青年だ。ある日ターイは別の青年から求婚される。するとターイはかつてあった恋を思い出す。彼女はランの養殖をする男性に恋をしたことがあった。けれど彼には別に想う人がいた。一方若い僧侶のサクダーは歌手でもある歯科医プルと出会う。プルはサクダーが木から落ちて死んだ弟の生まれ変わりのようだと言う。

  すると景色は一転して、近代的な白い病院となる。無機質な都市。またもや女医ターイがノーンの面接をしている。そこでも描かれる恋や、“チャクラ”。  この映画は〈かつてあった社会〉と〈そうなってしまった社会=現在〉の対比である。前者にあり、後者に無いものはなにか。じつにたわいもないが、一瞬の視線のやり取りや、束の間行われる登場人物たちの会話でそれが読み取れる。階段での会話、昔あった恋、失恋。そして輪廻をテーマとしている。 

 ウィーラセタクンは病院で幼少期を過ごした。前半で描かれる病院は自身の育った病院がモチーフになっていると語っている。ターイとノーンは結婚以前のウィーラセタクンの両親がモデルとなっている。非常にパーソナルな作品だ。 ・不変と普遍  前半で描かれる〈かつてあった社会〉は、昭和的で、また人間的で、魅力的だ。かといって後半で描かれる〈そうなってしまった社会〉がダメ、などという表現はされていない。「昔はよかったよ~あれもあったし、、、」ということではないのだ。たしかに、前半で描かれる社会の良さは、後半にはない。後半の世界は全てがシステムの構造物のように見え、また都市も無機質。そこでもウィーラセタクンは愛を描く。二つの社会の対比によって、不変(変わらないもの)と普遍(いつでも誰でも当てはまる共通性)を浮き彫りにする。

  邦題『世紀の光』はタイ語からの直訳だ。英語タイトルこそこの映画のモチーフを理解している。英題は Syndromes and a Century“一世紀の症候群”。シンドロームの意味することは「同時に起きる原因不明の病状」だが元々の意味は「同時多発的な原因によって生じる社会の行動様式」をさす。Century一世紀こえても生じる不変の愛。また、みなが生まれた時から有している普遍的な病だ。「トロピカルマラディ」と似ていることがわかる。ウィーラセタクンはきっと歌や恋、街や森が大好きなんだろう。彼の映画を観ているときは、時間こそ忘れてしまい、時間感覚さえも変わってしまうのだから。 

あとがき

  この批評を書き終えてから、ある本を読み感動しました。郡司ペギオ幸夫さんの書いた「天然知能」という哲学の本です。  天然知能とは郡司さんによれば、未規定な外部を認識し、それを受け入れるということです。もう少し簡単に説明しましょう。 

 この天然知能と対比させるのは、人工知能と自然知能です。人工知能と聞けばもちろんAIも示しますが、AIはもともと人間の知能をコンピューターに置き換えたものです。人間は誰しも人工知能を持っています。郡司さんは人工知能を一人称的知性、自然知能を三人称的知性、そして天然知能を五人称的知性と呼びます。

人工知能の世界の認識方法は、簡単です。例えば、あなたが迷路に入ったとしましょう。いろんな道を歩き、あなたはどの道が何処へつながっているのかをデータの収集によって導き出します。人工知能は計算可能な領域です。一人称である「あなた」は情報を収集し、主体的に出口を導き出します。

  自然知能とは何か。は今ある知識を最大限利用して現在の世界を認識するというものです。あなたが何処かの駅へ行くときに、GPSを活用する。 

 少年が森に入り、虫を捕まえてその場で図鑑を開き、なんという名前の虫か確認する。少年はその森の地図とコンパスを持っています。よほどの方向音痴でなければ迷わないでしょう。これが自然知能です。  

では天然知能とは何でしょうか。私が批評文のはじめに書いた、少年期の森での体験こそ、天然知能であります。

  自分すら感じることのできない、未規定な領域、これを“外部”といいます。私たちの世界の外には未知なる混沌が広がっています。さて、私は子どもの頃、その未規定な外部にこそ誘惑されたのです。いまでも魅力的に感じます。何処へ行くのかわからないけど行ってみたい。「他にもなにかあるんじゃないか」と認識していない場所を意識して森を体験するのです。そう、ウィーラセタクンの作品はこの外部性が無意識に表出しています。 

さて、あたなの世界に対する認識はこの三つのうちどれでしょう。この文面をスマホで観ているでしょうか、では、何処でこの文面に接しているでしょうか、電車の中、家の自室、学校の廊下。ではあなたの主体はどこから来ているのか。紛れもなく、システムによって生じた主体性に過ぎないということを、ミシェル・フーコーは論じました。

  それでも時々“外部”とつながっていなければなりません。計算可能な領域ばかり現代人は追い求めますが、そんなものはAIに任せておけばよいのです。

  ウィーラセタクンが描く愛、郡司氏の論じる天然知能、どちらもとっても不合理なもののように見えます。ですが、本当にそうでしょうか。 

 恋煩いという言葉もありますが、人は恋をするなり病気にかかったようになります。そして、成功したり、失敗したりする。その経験を何度も繰り返して、それが成就したり、またキリスト教的な理解では恋=エロ―ス、が愛=アガペーに変容したりします。アガペーは見返りを求めない“無償の愛”です。  

19年公開ジャ・ジャンク―監督の『帰れない二人』では、主人公の女性チャオがUFOを目撃します。SF映画ではありません。移ろいゆく街とともに17年間にも及ぶ愛を描く映画です。チャオは未知の外部を認識し、世界に身をゆだねるからこそUFOを目撃します。チャオは誠の人間なのです。

我々がシステムの駒になってしまった現代社会にこそ、ウィ―ラセタクンの世界感を取り戻す必要があるのです。誰しも、外部に惹かれるという感受性は得られるはずです。

 私の大好きな荒井由実さんのデビューアルバム「ひこうき雲」に収録されている紙ヒコーキという曲の中にこんな歌詞があります。 


とりとめのない気ままなものに どうしてこんなに惹かれるのだろう


  あなたはとりとめのない、だけど愛くるしくてたまらないものを守れますか。  


学生の映画原論

主に月に一度、映画や本、時には時事ニュースなどの評論をします。伝えるべきことを伝えようと思っています。

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